枚岡教会創立 58年記念 創立記念研修会     2008年7月13日
                                                  午後1時〜3

講演「祭壇の祝福とその聖別」    黒木安信牧師
                      (ウェスレアンホーリネス教団浅草橋教会)

聖書 創世記32章23節〜33章4節・ヘブライ人への手紙13章7節〜16節

 

祈りの祭壇を豊かにしていく(聖別されている)ことが必要である。
 19世紀の半ば頃、E.M.バウンズという人は、「心臓が鼓動をやめても、
祈りは神の前に生きている」と言っている。祈りは永続的である。サタンが最後まで
狙っているのは、祈りの祭壇を機能しないようにしていくことである。壊すのではない。
 壊されたら、人は造り直す。
 祈りの祭壇に触れないで機能しないように働くのである。祈りの祭壇は安泰と思っては
ならない。

祭壇という言葉は、聖書では401回出てくる。最初に出てくるのは、ノアがアララト山で
箱舟から出てきたときである。アブラハムは行く先々で祭壇を造っている。
 ベテルとアイの間、神の領域と人の領域の間。アブラハムにとっての最大の危機、我が子
イサクを差し出すときも、祭壇を造り直した。

祭壇は、詰められないことをゆだねる場所である。神の和解は不可解な理解を残さない。
 神のことを人の論理で裁くことは無意味である。人の理解とは本質的に違う。

ヤコブはエサウとの確執を神ご自身の祭壇にゆだねた。二人の和解は主にゆだねた。
 ヨセフも兄たちとの確執で、兄たちから見捨てられていた。創世記50章15節
(赦しの再確認)にあるように、兄たちは、人を介してしか、ヨセフに謝らない。
 ヨセフは「兄たちの心に」語りかけた。
 ヨセフの祭壇はどこにあったか。異郷の地エジプトそのものがヨセフの祭壇だった。
兄たちは22年でヨセフの声を忘れたが、ヨセフは兄たちがわかった。

私たちがキリスト者として祈りの祭壇をどこに築くか。そのことがどんなに祝福か。
 伝道はこの世を福音で満たすことである。私たちもキリストのため何か犠牲をささげる
必要がある。
 犠牲のない祭壇はない。そこからこの世につかわされていく、それが祭壇の意味である。

犠牲とは、わかりやすく言えば「損」である。そうせざるをえない「損」をしていい、
共に生かされ生きる十字架の福音に満たされていきたい。(中村 聡 記)