「神の確かさに身を委ねる」09.2.22
 コリントU 1:18〜22
 
「主の祈り」は、個人の祈りではなく、周りの人を覚えて「我ら」と祈る祈りです。
まず主イエスが、私たちと一緒になって、声を合わせるようにして「我ら」と
祈ってくださいます。
 「祈りは個人的なものではない。神が出てくるならば個人的なものになれない」
といわれます。世界の主なる神さまに心を向けるのであれば、神さまが愛して
おられる多くの人のことを思わずにいられません。主イエスが、神さまを愛する
ことと隣人を愛することをつなげておっしゃいました。祈りもそうです。神さまに祈る時に、
私たちは自己中心という狭さから解き放たれ、周囲に対して目が開かれます。

 「我ら」の中には、誰が含まれているのでしょうか。大きく広げて世界のすべての
人たちを含むこともできるでしょうが、少なくとも、教会で共に礼拝する人たちのことを
覚えた「我ら」です。「主の祈り」は、教会の祈りです。自分が教会の人たちのことを
祈ると同時に、自分も祈ってもらいます。
教会の礼拝や集まりで「主の祈り」が
祈られるたびに、自分のことが祈られています。病気や、高齢で礼拝に集えない時にも、
信仰の迷いの中にある時にも、祈りの言葉を失うほどの絶望の時にも、教会が折あるごとに、
自分のことを祈っていることを忘れないでいたいのです。

 祈りの最後の「アーメンと言う言葉は、何を意味しているのか。」との問いに、
教会はこう答えます。「祈りが真実で、確実であるということです。なぜなら、
私の祈りは、私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、神に聴かれて
いるからです。」祈りを聞いてくださる神が確かなので、アーメンと言えるのです。
祈りは、神の確かさに委ねることです。
 私たちの祈りには欠けや不誠実が伴います。我らと口にしながら、
なお利己主義にとどまることもあります。それでも、アーメンと終えられます。
一緒に祈ってくださる主イエスに支えられているゆえに、確かに聴いていて
くださる神に信頼してアーメンと言えます。