「十字架の輝き」09.04.05
 ヨハネ 19:17〜30
 
主イエスは、十字架にかけられ息を引き取りました。それは、主イエスのことが人々に
理解されずに残念な結果に終わってしまったからではありません。予想外の結果なのでは
ありません。主イエスの死は、「成し遂げられた」との言葉を伴います。聖書は、十字架の死の
状況を描きながら「こうして、聖書の言葉が実現した」と繰り返します。
旧約の時代から予告
されていたことが、今、ついに実現したというのです。それは、神の救いのご計画が実現し、
成し遂げられたということです。

 主イエスは、以前サマリア地方を旅しておられた時(ヨハネ4章)に、井戸の水では
満たされない命の渇きが人にあることを見抜いておられました。命の源である神から
離れていることで生じる「渇き」です。
 エゼキエルは、神に背くイスラエルを表す枯れた骨の幻を見ました。「谷の上には非常に
多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。
『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、
あなたのみがご存じです。』」(エゼキエル37:2-3)神から離れた人は、潤いを失い、枯れ、渇き、
愛を失い、冷たい心になります。しかし、主イエスの十字架は、人に永遠の命に至る水を与え、
枯れた骨を生き返らせます。
神はそれをご存知でした。
 主イエスは、十字架の上で「渇く」とおっしゃいました。罪ある私たちの叫びを代わりに叫び、
私たちの代わりに渇ききってくださいました。主が「渇き」を担ってくださったので、私たちの
「渇き」は取り除かれました。私たちは「渇く」との叫びを、もうしなくてもよいのです。神と結び
ついた、枯れることのない、永遠の命に生きる者とされています。

 十字架の主イエスの愛を見つめる時に、枯れた心に潤いある愛の心が与えられます。十字架の
下で互いに家族のように愛し合う関係を築きながら(25-27節)、今年度の歩みを進めてまいりましょう。