「なぜ泣いているのですか」09.04.12
 ヨハネ 20:11〜18
 
イースターには、「なぜ泣いているのですか。もう泣かなくてもよいのに…。
私は、あなたの傍らにちゃんと居るではないですか」との、主イエスのお声が
響き渡ります。
 葬られた主イエスのご遺体に香油を塗ろうと、マグダラのマリアは墓に行きました。
ところが、墓の中にご遺体はありませんでした。マリアは、誰かが主のご遺体を取り
去ったと思い、泣きました。ご遺体がなくなったことで、別れの現実を突きつけられた
のでしょう。しかし、主イエスは、復活なさって傍らに居てくださいます。死に勝利なさった
主イエスは、マリアの傍らに立ち、「泣かなくてもよい」と語りかけてくださいます。
主イエスに敗北した死は、主とマリアを引き離すことはできませんでした。死に勝利された
主イエスを知る時に、死による別れの涙は拭われます。イースター以降、死のもたらす
別れは、絶対的なものではなくなりました。
死より力ある主イエスが、死別の涙を取り
除かれるからです。
 マリアは、主が十字架にかかって死なれる前、自分の無力さに泣いていたでしょう。
十字架で死なれる主に対して、どうすることもできませんでした。何もできない歯がゆさ、
情けなさに打ちのめされていました。しかし、そのマリアも泣かなくても良いのです。
「私があなたの側にいるではないか。あなたは無力でも、私が力を持っているから
大丈夫だ。」すべてを成し遂げていかれた主イエスのお力に目を注ぐ時、自分が無力でも
泣かなくても良いことに気づきます。

 主イエスを三度知らないと言った、ペトロは激しく泣きました。しかし、罪と過ちを取り除く
十字架にかかって復活された主は、ペトロを非難するどころか、「平和があるように」と
おっしゃり、さらにペトロを信用なさいます。ペトロの涙は消えました。
 主イエスは、死、無力、罪、失敗に涙する私たちにも「泣かなくても良い」とおっしゃいます。
その主イエスのお声に包まれて、私たちは歩みます。