「心の目を開いてくださるように」09.05.10 
エフェソ1:15〜23
 
「祈り」は、信仰生活にとってなくてならないものです。では、私たちの祈りと、
信仰を持たない人との祈りは同じでしょうか。もちろん、祈る相手が違います。
それだけでなく、祈りの内容にも違いがあるでしょう。私たちの祈り求めることは、
「異邦人が切に求めているもの」とは違いがあるでしょう。
 エフェソの手紙は、パウロが捕らえられていた獄中で書いた手紙です。ここに、
彼の祈りが記されています。彼は、獄中で神に感謝をしています。それは、自分に
都合のよいことがあったからでも、自分の願いが叶ったからでもありません。神が、
エフェソの教会に働きかけてくださっていることを知ったからです。御子を十字架に
つけてまで私たちを愛し抜き、救おうとなさった主なる神が、今、働いておられる。
それを知る時に、どんな状況であっても、安心していられます。
彼は、神に対する深い
信頼ゆえに、いつも安心して、感謝する者でいられました。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに
知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださる
ように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの
受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、
わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、
悟らせてくださるように。」(17-19節)
 パウロは、教会員の心(信仰)の目が開かれ、信仰の深まることを祈ります。信仰の目が
開かれ、神の働きかけをしっかりと見ることで、目の前のことに振り回されない確かな歩みと
なっていきます。
神の救いの働きの確かさを知るので、希望を失いません。豊かな栄光に
満ちた御国の命を受け継ぐ幸いを知るので、楽しみが尽きません。死を滅ぼすほどの神の
力の大きさを知るので、死もどんな被造物も恐れません。心の目の開かれることを、互いに
祈りあう者でありたいのです。