「キリストの体」09.05.17
 
エフェソ1:20〜23
 教会標語として「わたしたちはキリストの体です」を掲げています。洗礼を受け、教会に連なる
私たちは、主イエスの体の一部とされた、主イエスにとってかけがえのない存在です。
私たち
ひとりひとりを神さまが望み、選び出し、教会に迎え入れてくださいました。このことをしっかりと
心に刻むことで、私たちの信仰生活はぐらつかないものとなります。
 教会の頭は主イエスです(22節)。教会も、そこに連なる私たちも、頭である主イエスに従い、
仕えるようにして動きます。
そうやって、体である教会全体が健やかになり、それを保ちます。
教会や私たちの歩みが、頭である主イエスに仕えているかどうかを問い、必要に応じて修正して
いくことは大切です。しばしば、主イエスを足元に従わせ、自分自身が頭になろうとする誘惑に
襲われます。しかし、罪人であり、欠け多い自分自身が頭では、そこに確かな歩みはけっして
生まれません。ですから、主イエスという頭が必要です。
頭は、体全体に心を配るものです。
私たちは、頭である主イエスに心配られ、守られている存在なのです。
 主イエスに仕え、従う生活というのは、第一に教会に仕える教会生活です。教会での奉仕や
献金によって主イエスに仕えます。第二に、派遣されたこの世でも、主に仕える歩みを送ります。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにして
くれたことなのである。」(マタイ25:34-40)とありますように、隣人を愛する歩みです。そこで
私たちの信仰生活が祝福されていきます。
 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場
です」(23節)と言われます。
ぶどうの木から枝に向かって、栄養がいつも注がれています。
主イエスは、教会に連なる私たちに恵みと愛をいつも注ぎ、満たしておられます。自分自身では
気づいていないこともありますが、主イエスに満たされている存在とされているのが、私たち
であります。