「満たされる」09.08.02
 エフェソ3:14〜21
 
自分が、神に対して祈り求めるべきものは、いったい何でしょうか。
私たちは、本当はそれほど必要でないものを、一生懸命祈り求めて
いることがあります。そんな私たちに、本日の聖書は、
祈りの言葉を示してくれます。
 この祈りでは、「内」と言う言葉が繰り返されます。私たちは、
自分の「外」「周囲」に神が働きかけることを願うことがよくあります。
けれども、聖書の祈りは、まず自分の「内」に神の働きかけを求めます。
「内」が整えられて、自分が変わるときに、周囲の見え方が変わり始めます。
そうすると、道が開かれていきます。
 この祈りでは、「内なる人を強めてくださるように」と祈り求めます。
「内なる人」というのは、精神や心ではなく「クリスチャンとしての自分」です。
それが強く、確かにされていくために、主イエスを心にお迎えすることを
祈り求めるのです。「住みため きみよ ここに この胸に」(讃美歌124)
を祈りの言葉とするのです。それを祈り求めていく時に、すでに、
主イエスが私たちの心に住んでいて下さることに気づかされるでしょう。
もうすでに、無くてはならないものが与えられていることに気づかされるでしょう。
 主イエスが、弱く小さな私たちの心に住んでくださる…このことによって、
主イエスの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ります。私たちの心は、清く、
正しく、美しいものとはいえません。汚れ、過ち、醜さがあるからです。
それにもかかわらず、主イエスは、私たちの心に住んでくださいます。
我慢をしながら、嫌々住んでいらっしゃるのではありません。
「あなたの所が良い」と言って、主イエスが私たちを選び、私たちの心に
住んでくださいました。人の知識をはるかに越える愛が、それをさせるのです。
この愛を知るとき、私たちの心は震え、内なる人が強められます。
 内なる人が強められることで、私たちは絶望ではなく、恵みと希望が
見え始めます。
イキイキとした、感謝と讃美のある生き方が始まります。