「沈む信仰」09.08.09上山耕平神学生
 マタイによる福音書14:22〜33

ペトロの信仰は、ペトロ「が」信じる信仰であって、ペトロ自身を出発点とする
自力を頼りにした信仰でありました。自分が肩肘張って、強い信仰をもってして、
イエス様を見なければ沈む。だから信じる。そんなものは信仰でもなんでもなく、
単に恐れをごまかす為、恐れに呑み込まれない為の脅迫観念でしかありません。
私たちが信じる以前に、神様はすでに私たちを捕らえて下さっています。
信仰の出発点は神様にあるのです。ペトロは沈む経験をしたからこそ、
その後の「あなたはメシア、生ける神の子です」という、明確な信仰告白へ
と導かれました。今まで自分が「信仰」だと思っていたものが崩された。
暗闇へと引きずられ、沈んでいった。しかしイエス様によって、暗闇から
引き上げられました。その時、今までペトロの持っていた信仰は沈み
ましたが、まったく新しい信仰が引き上げられました。自分を根拠として
いた古い信仰は死に、自分を根拠としないイエス様を根拠とする新しい
信仰によって立てられたのです。
信仰者の姿は、イエス様を見続けることが「よい事である」と思われますし、
誰もがそうでありたいと願います。しかしいつしかイエス様を
「見続けている信仰」がすばらしいと、「見続けることのできる(個人の)信仰心」
が偉くなってしまいがちになります。
私たち(個人)がイエス様を見続ける、ということよりも、私たちを見続ける
イエス様、が重要なのであります。ペトロがイエス様を見続けようと意気込む
以前に、イエス様がペトロを見ており、最後の最後まで見続け、
そして助けました。
私たちは肝に銘じなければなりません。すでに恵の座の中にあるということは、
逆説的ではありますけれども、このような湖で起きたような出来事、
危機を通してしか、はっきりと分かることができないのであります。
信仰の薄さのゆえに、イエスを求めるのです。つまりは、ペトロのように
信仰の薄いものが、信仰の深いものになれる。そして真の意味で、
信仰を告白することができるのです。