「静かな岩」09.08.30上山神学生
ヨハネ福音書21章15〜19節

私たちの持っている愛というものには限界があります。
絶対確実なものではありません。常に変動の中にあります。
不十分であり、不完全であります。私たちは神様ではありませんから、
私たちから絶対的な愛、アガペーは出てきません。
神様の絶対的な愛に対して、人間は絶対的な愛をもってして
返すことの出来ない、不完全な状態の愛でしか、愛すことのできない
存在であるとも言えます。しかしイエス様は不完全な、人間的な限界内
でしか愛することのできないペトロの次元にまで、降りてきて、
ペトロの愛を容認してくださいました。ペトロは他の弟子より多く、
その言動をイエス様に注意されました。そして他の弟子より多く
失敗いたしました。しかし、その分といいますか、他の弟子よりも多く、
イエス様によって赦された存在でした。多く赦された者は、
多く愛すことができます。同様に、ペトロは他の弟子より多く
赦されていますから、その分、多く愛することができるようになるのです。
ペトロは何度も弱さをさらけだしましたが、そのたびに復活の主に励まされ、
立ち上がり、兄弟たちと歩みを共にする生涯を送りました。最後まで弱さを
抱えながら生きました。しかし、復活の主に出会い励まされる中で、
ペトロは大きな安心感に包まれたのです。その信仰すらも、神様によって
包まれるという経験を通して、完全にペトロは自分で熱くなる必要は
なくなりました。代わりに、神様によって与えられた安心感からくる、
静かな熱を身にまとうようになります。ですから、熱だけで突っ走って
いたが為に、土壇場で三度知らないといって裏切ることもなく、イエス様に
よって支えられた安心感をまといながら、最後に死んでゆくのです。
ペトロの静けさは、神様により全てが受容されているのだ、という
安心感からくるものです。この安心は、キリストを信じる人に与えられた
特権であります。その道を神様は、イエス様を通して示してくださり、
また実際その安心の中で生き、生涯を遂げた証人として、ペトロを立てて
くださりました。そして今、私たちはそのことを知らされるのです。