「救い主が罪ある人の所に」09.11.29
 マタイ1:17
 
マタイによる福音書は、イスラエルの系図を記し、その系図に主イエスが加わった
ことを記します。アブラハムからはじまる系図が表す、イスラエルの2千年の歴史
から見えてくるのは、過ち多く、頼りなく、懺悔する事の多い歴史です。主イエスが
加わろうとされるのは、輝きに満ちた系図ではなく、輝きを失っていった
系図でした。
 聖書は、その系図を十四代ごとに三つに区切っています。最初の十四代は、
神さまからの祝福の約束を受けた歩み出した時代です。しかし、困難を
抱えながらさ迷う時代でした。奴隷状態もありました。やっとのことで定住しても、
争いは尽きず、安定しませんでした。次の十四代は、ダビデからはじまりますが、
輝かしい王朝時代ではなく、結局は滅びていく世代です。姦淫の罪を犯した
ダビデから始まり、神に背き異教の神に心を向けるという、神に対する姦淫を
繰り返します。次の十四代は、無名の小さな取るに足りない人たちです。
いずれも、輝かしい世代といえるものではありません。
 しかし、主なる神さまは、懺悔の歴史を持つイスラエルを担い続けて
こられました(イザヤ46:3-4)。神に担われる関係は、系図に主イエスが
加わることで揺るがないものとされます。神の御子が加わったことで、
イスラエルが神の民であることは、疑いようのないものとなり、神が共にいる
インマヌエルが実現しました。
 このイスラエルの姿に、私たちの姿を重ね合わせることができます。
信仰者として歩み出した私たちではありますが、さ迷い、背き、小さな取るに
足りない存在です。その歩みは、輝かしいとはいえそうにありません。
懺悔を重ねる歩みです。しかし、クリスマスがおこったのです。十字架に
かかり私たちの罪を取り除き、私たちを復活による永遠の命に招きいれ、
私たちを神が共にいる人生にするために、主イエスはクリスマスにお生まれに
なります。そして、私たちひとりひとりの人生に共なり、加わってくださいます。