「キリストが向かう先」10.06.06
 マルコ 1:29〜39
 
主イエスは、町や村を巡って、人々に神の国の福音を宣べ伝える前に、ます、ご自分に従ってきた
弟子の家に立ち寄られました。これは注目に値します。
 主イエスから「わたしについて来なさい」と呼び出されたシモンとアンデレは、すぐに網を捨て、
家族を捨て、主に従う新しい人生に踏み出しました。彼らは、主イエスについて行き、安息日に
会堂で礼拝を守りました。そこで、主イエスの語られる権威ある新しい教えを聞き、汚れた霊を追い
出される主イエスを見て興奮したでしょう。主イエスに従った自分たちは正しかったと、強く思ったでしょう。
そんな主イエスが、次に向かわれたのは、町や村の人々の所でなく、自分たちの家でした。主イエスは、
ご自分に従う者の家族の所に、まず向かわれます。ご自分に従う者の家庭を放っておかれはしないのです。
 主イエスは、シモンの家に行き、彼の姑の熱を癒されました。主イエスに従うシモンの信仰が、主イエスと
家族をつないでいきました。病気の息子を主イエスのもとに連れてきた父親の話があります(マルコ9章)。
「わたしども(自分と息子)をあわれんでください」と言っていた父親に、主は「あなたは信じるのか」
と迫ります。「信じます」と自分の信仰を告白した、父親の求めを主はおききになります。主イエスは、
信じる者の家族を放っておかれはしない方です(コリント一7:12-14、使徒言行録16:31など)。
 礼拝堂のステンドグラスには神の目が描かれています。礼拝の度に、主の愛に満ちたまなざしが
自分に向けられていることを知らされます。神の瞳の中に自分が写っていることを喜んで、私たちは
歩みを続けます。ただ、神の瞳に写っているのは、自分だけではありません。愛する家族のひとりひとりも、
神の瞳には映っているのです。神は、家族をも救いたいと願っておられます。私たちは、家族伝道の
困難さに出会いますが、神に励まされ、家族伝道に心を注ぎ、祈りを重ねていくのです。