「よろしい清くなれ」10.07.04
 マルコ1:40〜45
 
主イエスは、悲しみの中のいる人を放っておかれはしません。この聖書の場面でも、
重い皮膚病の抱えていた悲しみを取り除いていかれました。
 聖書の時代(日本でも近年までそうでした)、重い皮膚病にかかった人は、社会から
追放されました。汚れたものと見なされたからです。また、汚れゆえに神からも見捨て
られたと思われ、神との関係が絶たれた者とも見なされました。肉体的、社会的、
信仰的な悲しみに覆われました。そのような人が、主イエスの所にやってきました。
当時の決まりで、皮膚病の人が人前に出る時は、「私は汚れたものです」と叫ばなくては
なりませんでした。彼は叫びながら、周りの人の冷たい視線に耐えながら、主イエスの所に
きました。彼は、自分のことを汚れていると思っていました。そんな自分は、神の権威を持つ
主イエスに拒まれるかもしれないとも考えたでしょう。けれども、「悔い改めて福音を信じなさい」
とおっしゃる主イエスの招きの言葉を耳にしていたのでしょう。罪人も汚れた者も、悔い改めて
主イエスを信じることで、新たな道が開かれると信じ、そこにかけるようにして、主イエスのもとに
来ました。主イエスは、そのように信頼を寄せてくる者を、しっかりと迎え入れてくださる方です。
 その際、主イエスはその人の患部に触れました。主イエスは、私たちひとりひとりの患部に
手をのばし、触れ、清めてくださいます。私たちは、罪と汚れある自分を隠すのでなく、
主イエスに差し出すべきです。そこに触れていただき、清めていただくのです。
 主イエスは、「よろしい、清くなれ」とおっしゃって、その人から病を追い出されました。
病が取り除かれただけではありません。清められたのですから、神に受け入れられ、
愛され、神との深い結びつきの中で生きる者に変えられたのです。「よろしい」との言葉は、
「望む、願う」という意味の言葉です。「私は望む。あなたは清められよ!」主イエスのこの言葉が、
今日、私たちにも向けられています。