「罪人の救いのために来られた方」10.10.31
 Tテモテ1:12〜17
 
<「イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は、真実でありそのまま受け入れるに値します。>
 主イエスは、罪人を救う救い主として、この世にお生まれになりました。主イエスは、病人や悪霊によって苦しんでいる
人を憐れみ、癒されました。人々に神の国や人の生き方を教えました。しかし、それが生涯の目的ではありません。
主イエスは、ずっと十字架を見据えてその歩みを進めていかれました。
 主イエスが問題としている罪は、法律を破る罪や、人の心の中の醜くさではありません。完全に法律を守り、欠けのない
立派な人なら罪がないというのではありません。神を神として信じていないことが罪です。神との関係が破れている状態が
罪の状態です。それは、人間の本来あるべき状態ではありません。その罪の状態が生み出す最大の問題は、死と滅びに
至るということです。永遠なる神との関係が破れているのですから、神の国とも永遠の命とも無縁となるしかありません。
 主イエスは、その罪人を救うために十字架に進まれました。十字架の上で神の御子としての力を発揮し、すべての罪人
(私を含めて)の罪を担い、代わりに死なれたのです。この主イエスを信じることで、罪が赦され、神との関係が回復され、
永遠の命が与えられます(16節)。滅びゆくしかなかった罪人が、主イエスを信じ、その御業に身を託すことで、罪の赦しと
永遠の命を手にする者に変えられる。この大きな奇跡を起こすためにこそ、主はこの世においでになりました。
 主イエスを信じることで罪が赦され救われるという奇跡に対して、疑いを持つことがあります。自分の罪深さを知ると、簡単
に赦されるとは思えないからです。サタンも十字架の贖いの力を小さく思わせようと誘惑してきます。そして、死と滅びの不安
に心を奪われ、救いの感謝を見失いそうになります。私たちは弱さを抱えています。しかし、毎週の礼拝で慰めの言葉を聴き、
救われた者であることを知らされるのです。