「涙一粒さえ受け取られている」10.11.21
マタイによる福音書20:1〜:16 米田芳生牧師
 
自分の存在を受け取って下さる方がおられる。そのことを受け取ると私達は痛みを持ったままの現実の中で歩んでいても、
暗闇から解放されて前進することが許される。  主イエスが語られた「ぶどう園の労働者」の譬えは、「天の国」を示すものであった。
この天の国の教えには、神が御支配される姿を明確に示され輝いている。それ故天の国を持つことを我が身に受け取れる者は、
今を生きる平安の源を得る事となる。
 神の御支配の姿は、「主人が朝早くから自分のぶどう園の為に労働者を雇う為に出かけていくようなもの」と記される。主人自らが、
何度も町に出かけて人々を自分の下に働き人として招く。主人に招かれ雇われた人々は、賃金を受け取り生きる糧を与えられる。
 しかし、支払いの時になり一見すれば理解に苦しむことが行われる。最後に働いた者から賃金を支払い、労働時間が異なる者も
皆同じ賃金を渡したのである。その姿には、天の国のご支配は人間に根拠があるのではないことが意味され示されている。ただ主人
である神の恵みと愛の故に約束される。たとえ世の基準でなくとも、それが天の国であり神の御支配の姿なのである。  それはまた、
主人である神が主人のいない、生きる糧が見出せないで歩んでいた時の不安その痛みの数も知り受け取って下さることを示している。
それ故天の国の約束を受け取れるということは、私達の誰にも見出されなく流した涙も苦しみも全て受け取られていることを今知らせる。
  その意味でも神のぶどう園で働く者となった最初の人こそが、一番幸せな人なのである。主人と共に生かされる平安に生きることが
早くに許されたからである。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という主イエスが語られた逆転の姿も、喜びをもって受け
入れる者こそが、神の御支配を真の意味で見つめ生きている者である。我々は皆神の働き人として今を生かされている。涙一粒さえ
受け取られている。神に必要とされて生かされる今を感謝し、我が身に溢れさせ歩まされたい。