「憐れみに胸を焼かれる」10.11.28
 ホセア11:1〜11
 
待降節に入りました。私たちは、この季節を謙遜と慎みの心ですごします。自分のことで頭を一杯にするのを止めます。
神のみ心を尋ね求め、神のことで頭を一杯にしてすごすのが、この季節の私たちです。
 人に向けらえている神の心を、聖書は教えてくれます。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、
わが子とした。」(1節)神とイスラエル(私たち)の関係が、親子に例えられます。幼いイスラエルを愛した神は、私たちの能力や
持ち物ではなく、存在そのものを愛される神です。親が子にするように、腕を支えて、歩くことを教え、愛のきずなで導き、身を
かがめて食べさせるようにして養う(3-4節)神です。
 ところが、その神に背き、神から離れるイスラエルの罪がありました。罪は、神との関係の破れた状態です。神不在の所には、
悲劇がうまれます。神に守られることのないイスラエルは、外国の攻撃によって破壊されていきます。「わが民はかたくなにわたし
に背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」という厳しい言葉が発せられます。罪を憎み、
罰する義なる神は、罪と共にあることはできないからです。人が、自分の罪ゆえに苦しみ、悲劇に陥っているのは自業自得です。
しかし、神は「お前を見捨てることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」とおっしゃいます。たとえ
罪があっても見捨てることのできないのが、人に対する神の心です。罪を罰し、罪人を見捨てる心を変え、罪を赦して一緒にいよう
とされます。
 このような神の心を知らされる時、主の十字架を思い起こします。主イエスの十字架は、罪を裁く神の義と、罪を赦す神の愛が
交わっている所です。「お前を見捨てることができようか!」とおっしゃる神が、罪ある者を赦し、愛で包み、共にいられるようにと
十字架の出来事を起こされます。その第一歩として、神はクリスマスに御子をこの世に送られたのです。